労働基準法での休日に関する規定

法定休日

休日については、労働基準法35条で次のとおり定めています。

労働基準法第35条

(休日)

第三十五条 使用者は、労働者に対して、毎週少くとも一回の休日を与えなければならない。

2 前項の規定は、四週間を通じ四日以上の休日を与える使用者については適用しない。

週休1日が法律で定めた最低限の休日なので、法定休日といいます。ところが、35条は不思議な条文です。1項では「毎週少なくとも1回」といいながら、2項では何の脈絡もなく、「4週を通じ4日以上を与える使用者」、つまり休みのない週があっても他の週でつじつまを合わせる方法(4週4休制といいます)による使用者もいるといっているのです。そして、4週4休制は労働基準法や労働基準法施行規則のどこを見ても触れられておらず、この疑問を解消するためには厚生労働省通達1947年(昭和22年)9月13日付、基発第17号まで遡る必要があります。

基発第17号 1947年(昭和22年)9月13日

(一) 第一項が原則であり第二項は例外であることを強調し徹底させること。

(二) 第二項による場合にもできる限り第三二条第二項に準じて一定の定をなさしめるやう指導すること。

(一)では、4週4休制は例外だということです。そして、(二)ではその場合でも就業規則などでしっかりと定めをしなさいということです。ところが、ここでまた疑問が生じます。現在の労働基準法32条次のとおりです。

労働基準法第32条(現在)

(労働時間)

第三十二条 使用者は、労働者に、休憩時間を除き一週間について四十時間を超えて、労働させてはならない。

2 使用者は、一週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き一日について八時間を超えて、労働させてはならない。

(2項以下は省略)

4週4休制と1日8時間労働とでは全く話がかみ合いません。そこで、また歴史を振り返ってみると労働基準法32条は、1987年(昭和62年)に改正があり、改正前の条文は次のとおりでした。

労働基準法第32条(1987年(昭和62年)以前)

(労働時間)

第三十二条 使用者は、労働者に、休憩時間を除き一日について八時間、一週間について四+八時間を超えて、労働させてはならない。

2 使用者は、就業規則その他により、四週間を平均し一週間の労働時間が四+八時間を超えない定をした場合においては、その定により前項の規定にかかわらず、特定の日において八時間又は特定の週において四十八時間を超えて、労働させることができる。

1987年の改正は、週当たりの法定労働時間が48時間から40時間に変更された画期的なもので、そのことを強調するため、これまで1項で1日8時間週48時間としていたものを、1項では週48時間、2項では1日8時間というように分割して整理しました。そして、従来あった32条2項は削除されました。

ところで、この改正は変形労働時間制(労働基準法32条の2から5)が新設されたことでも知られていますが、実は削除された32条2項で1箇月単位の変形労働時間制の前身のようなルールが規定されていたのでした。

そこで、再び基発17号(二)をみると、あくまで例外として月の中で繁閑の差が激しい事業場では、4週4休制も認めます。その場合にはしっかりと就業規則などで定めてください、ということになります。要は、休日については、毎週少なくとも一回というのが大原則と考えてよいようです。

ところで、この基発第17号というのはどういう位置付けのものなのか、また「強調し徹底させること」というのは誰が誰に徹底させるのでしょうか。深堀りしてみたいと思います。

労働次官通達 基発第17号とは

基発第17号の位置づけ

基発第17号は、昭和22年9月13日に「労働基準法の施行に関する件」として都道府県労働基準局長あて労働次官通達として発せられました。

労働次官とは労働省(今の厚生労働省)のナンバー2、ナンバー1は大臣で通常は政治家ですから官僚のトップをいいます。都道府県労働基準局とは、国の出先機関として各都道府県ごとに設置され、労働基準監督署などを統括していました。(2000年(平成12年)の中央省庁再編で、当時の都道府県女性少年室や都道府県職業安定主務課と統合されて、現在は都道府県労働局となっています。)

前文では「労働基準法は昭和二二年四月七日公布され、九月一日からその主要部分が施行されることとなり、労働者使用者はもとより一般国民に対しても充分法の趣旨徹底を図ると共に、特に左記事項に留意して運用の万全を期せられたく、命によつて通牒する。」としています。つまり、労働省のトップが各労働基準局に対し、「労働基準法が新たに施行されるので、企業や一般国民にその内容をよく説明して理解してもらえるようにしなさい。その際に都道府県によって言っていることがまちまちで混乱するといけないので、実務的な細かいことを定めたから徹底しなさい。」と指示をしているものだと考えられます。ですから、労働基準監督署に対して「就業規則の提出を受けたときに4週4休制が定められていた場合、拒むことはできないけど一言くらいチクリと言ってやりましょう」というニュアンスになると思います。

基発第17号が発せられたころのこと

ずいぶん昔の話なので、当時のことを調べてみると興味深いことがわかります。まず、労働基準法は1947年(昭和22年)3月に議決されました。ちなみに、日本国憲法(新憲法)は昭和21年11月公布、昭和22年5月施行なので、まだ、大日本帝国憲法(旧憲法)の時代でした。驚くことに、労働基準法は旧憲法による帝国議会の最終回(第92回)で決まった法律だったのです。

ありがたいことに、労働基準法について専門的に議論された労働基準法案委員会の議事内容は、インターネット帝国議会会議録検索システムで簡単にみることができます。

帝国議会会議録検索システム

ここで、週休については「8時間労働制と週休制は、第1回国際労働会議以来国際社会のみならず、あまねくわが国においても理解せられ、今日既に広範に実施せられておるのでありまして。これを法律上の最低基準とすべき時期であると考えられるのであります。ただ、我が国の実情に鑑みまして、8時間労働制と週休制とはこれを厳格なものとせず・・・」と法案の趣旨が説明されています。

国際労働会議とは1920年(大正9年)ILO(International Labor Conference)の第1回総会のことであり、「世界的な流れもこれからは週休1日だよね」といいつつ、そうはいっても戦後のゴタゴタの状況をみるにつけ「4週4休制も全くダメとは言いずらいよね」というところに落ち着いたことがわかります。

もう一つ興味深いことに、労働基準法案委員会で法律の趣旨説明をしていたのは当時の河合良成厚生大臣、労働大臣ではないのです。労働省は労働基準法が制定されてから施行されるまでの間、昭和22年5月24日に発足した社会党政権である片山内閣の公約を実現させるため、厚生省の労働行政部門を分割して設置した省庁なので、労働基準法が審議されたときにはまだ存在していなかったのです。この意味では労働次官通達基発第17号は、新生労働省の初仕事の1つであったといえます。

なお、河合良成さんは政権交代後、当時経営不振だった小松製作所の社長に就任し、再建にあたったといわれています。